備忘録

メンヘラこじらせたアラサー看護師の日常

距離を置きたい人

普段人の気持ちとか考えていることがなんとなくわかるような同じ気持ちや考えになるような気分になる事が多いけど、

今日ワーカホリックでメンタル持ちの女性と話をして全く気持ちが分からない、その考え方を分かりたくないと思った。


数年前の自分と似た考え方をしていることに気づいて自分の中でセーブをかけたからなのか、相手が理性的な考え方をしていて感情的に話をしなかったからなのかは分からなかったけど、こんなにも距離感やモヤモヤを感じた人は久しぶりだった。


自分が女性に対して恋愛感情を持つのは母親に対する依存心や執着を投影してると感じていて、男性に対して嫌悪感を持つのは父親への恐怖心を投影してるからだと感じているから、理性的な性格だったり厳格さを持っていたりする人に対して父性を感じて苦手意識を持ったのだろうか、とも思った。


人との距離が近すぎて距離を上手く保つ方法を学びたいと思っていたけど、自分が距離を置きたいと思う女性がいることに少し驚いた一日でした。

他人に自分を重ねる癖について



私が看護師をやっていて一番やりがいがあると感じる時は患者に感謝の言葉を頂いた時です。


こう言うととてもありふれた言葉だと思います。「私もそうです」と共感される事もあります。


患者に感謝されることは自身の労働の成果、ホスピタリティの質の指標でもあるので、それは当然の事だと思います。


でも正直に言うと患者が元気になって退院する際に感謝の言葉をもらうときよりも、

患者に辛い思いを打ち明けられたあと、スッキリした表情でありがとうと言われるときにとてもやりがいを感じ、救われた気持ちになります。


自分と他人の境界が曖昧であるために、患者に自身を投影して患者のカタルシスを自分のものにしてしまっているからです。


この状況は患者主体というより私主体になってしまっています。


患者に歪んだ自己愛を押し付けてしまっていることを看護師として本当に恥ずかしく思います。


なのにその事を良い事をしたかのように感謝され肯定され続けることで、仕事の報酬、やりがいになってしまい余計に抜け出せなくなってしまっています。


その事は自覚していて気を付けなければと思っているのに、

患者の抱える辛さと真摯に向き合おうとすると、どうしても冷静になれず自分の事のように感じてしまいます。


そんなとき、患者に掛けるべき言葉が分からなくなってしまうことがあります。


自分が同じ境地に至ったような気持ちになって

こんなはずじゃなかったのにどうしてこんな状況になってしまったんだろう

これからどうしよう、どうするべきなのか、と客観的に思考できなくなります。


一度その状況に陥ると、仕事が終わるまで抜け出せなくなってしまいます。


先日患者に声かけが出来なかったことを先輩に相談したとき、

「私だったらこういう声かけをするよ、例えば」と先輩の患者に掛ける言葉を聞くと涙が溢れてしまったのは、


患者に対してまともな声かけが出来なかった自分が情けない気持ちになったからとか、

先輩の患者に対する真摯な思いを感じて暖かい気持ちになったからというよりも

患者と自分を同一に感じて先輩の言葉に自分が救われたような錯覚をしてしまったからだと思います。


そういうとき、自分がしっかり境界を引けていなかったと自覚して虚しくなります。


看護師はある程度、患者との境界を超える事も必要だと思います。


共感が患者の意思決定を促す事もあるかもしれません。


でもあくまで患者が主役であって、看護師は患者を支える役割であるべきだと思います。


実際は無意識に患者に自分を投影して自分の欲求を満たそうとしてしまっているだけなのに、


自制出来ず一緒になって泣いてしまって「ありがとう、優しいのね」なんて言葉に酔ってしまう日が今日で最後になればいいのに、といつも思います。


私とこのブログを始めた理由について

本来ならこの記事は自分はどういう人間です、とまず簡潔に自己開示するところから始めるものだと思います。


ですが、私は自分がどういう人間であるか上手く説明できません。


自己開示する事で嫌われたり劣った人間だと思われたりする事が怖いという自己愛的な理由もありますが、

そもそも語れるような自分はほとんどないようなもので、確固たる意志も信念もなく周りに流されるように生きてきたからです。


他人に自分を説明するときが全くない訳ではないので、

サイコロの側面を撫でるように真面目なところがあるとか、

流されやすいところがあるとかそういう説明をすることはあります。


でもそうすると、100面サイコロの目をひとつだけ取り上げて残りの99面に目をつぶっているような感覚、つまり嘘を付いているような気持ちになります。


私のダイスの目はいつもその面が出るなんて事はなくて、ほとんどが一回きりだからです。


普通の人間もそういうものだと、ある程度の多面性があるものだと思いますが


お前はよく分からないとか

少し会わないだけで違う人間になったみたいだと色んな人に何度も言われる度に


人よりもサイコロの目が多いのではないかと、そもそも自分というものなんてないんじゃないかとより強く思うようになりました。


なので私が自分について嘘偽りなく語ろうとすると、

他人とどう関わってきたか、それに対して自分がどう思ってきたかと言う事がだらだらと続く事になります。


長くなると思いますが、よかったらお付き合いください。



私は小さい頃から親の願う優しくて真面目ないい子のふりをしたり、

友達が望むなんでも言う事を聞く都合のいい子に甘んじたり

恋人が求める寂しがりで大人しい人間を演じたり


いつも他人の顔色を伺って他人が望む自分でいようとしてきました。


そうしなければ自分が価値の無い劣ったどうしようもない人間だと言う事が露見して見捨てられると思っていました。


自分を求められる型にはめようともがき続けた結果、何もかもが辛くなって気がつけば過呼吸で倒れたり涙が止まらなくなったり吐いたり自傷行為をしたりしていました。


親を悲しませたり友達を心配させたり恋人を怒らせたりして、

それに対して心のどこかでまだ見捨てられてなかったと安心する自分が憎らしくて、情けなくて、虚しくて、生きる価値のない、生きているだけで他人に迷惑をかける害悪に思えて、消えてしまいたいと思うようになっていました。


看護師になろうと思ったのは人の役に立てない自分に存在価値がないと思ったからでした。

看護師として人の役に立てたら、自分の事を認める事が出来る気がしました。


結果として患者さんにとって良い看護師であろうとすることで、

人に依存しない関わり方を覚え、他人を振り回す事も少なくなりました。

患者のために生きていなきゃいけないと、患者に生き甲斐を求める事で死にたいと思う事も少なくなりました。


でも今まで人との関わりを依存的に、他人の言いなりになる事で怠け続けてきた自分にとって看護師としての人との関わりはかなりの負担でした。


患者の安全を守るために、「縛られるくらいなら死んだ方がマシだ」という患者の叫びに耐えながら家族の了承を得て手足を抑制したり

安全な業務の遂行のために、患者の思いや訴えを大切にしている先輩と言い争いになったり


人と対立する事は私にとって嫌われる事と同義であって、確立した自分を持たない私にとって堪え難い事でした。


精神的に余裕がなくインシデントを繰り返す私を心配した係長に心療内科を勧められ、

投薬治療とカウンセリングを続けた結果、寛解に至る事が出来ました。


もう自分は他の人となんら変わらない人間だと思う日もあれば、

自分と患者を重ねて患者の辛さに引き摺られて過呼吸になったり

自分と母親の依存した関係を他人と重ねて周りを振り回したりして


未だに自分と他人の境界をふらふらしていることに気付かされる日もあります。


他人のため、と言い訳をしておきながら結局他人に自分を投影して充足感を得ようとする自分を律する為に、

他人と自分の境界を引き直す事ができるようになるためにこのブログを始めました。